恋人が出来たとき、うっかり人に話すと必ずこう訊かれる。
「その子、かわいい?」
外見の話題である。そして紹介して本当にその子がかわいければ、あいつにはもったいないと陰で言われ、その子がブスだったら、よくあんなのとつきあう気になったなあと陰で言われる。
恋愛は外見で価値が決まる。
これは恋愛の一つの側面である。この厳然たる事実をまず、素直に受け入れることから話をはじめたい。ここで、顔だけで人間が判断されるなんて許されないだとか、顔よりも心がきれいなほうがすばらしいだとかの、感情論で反論するのはやめてほしい。性格なんかこれっぽっちもわからないアイドルタレントに少女が恋するように、外見が恋愛感情に火をつける一つの要素であることを冷静に知識として知ってもらいたい。
外見が恋愛の価値を決めるならば、いい外見があるということである。そして、いい外見があるということは悪い外見もあるということだ。ここでは俗にブスと呼ばれる、悪い外見について考えてみようと思う。
ブスの話をするとき、特にその話の輪にブスがいたら「神様はきっと公平だ」という話になる。つまり、「美貌だけに頼っている美人は、美貌が衰えればなにも頼るものがなくなる」と言ってみたり「いくら顔がよくても性格がよくないとね」と話を濁したりして、ことわざ通り「美人は損なんだよ」とまとめて、「おそらく神は公平だから、そんなに顔はよくなくても美人の持っていないすばらしさがあるはずだ」などと目に見えないすばらしさを説いたりするのだ。
だが、果たしてそうなのだろうか?
ぼくの経験から言うと、特に女の子は顔がかわいいほうが恵まれているように見える。
ぼくが見てきた世界をすべてだと断言するのは避けたいが、やっぱりブスな女の子はそのブスさが原因でいじめられるし、かわいい女の子は、女の子はかわいい子を友達にすることに魅力を感じるようですぐに友達が出来るし、かわいすぎて女の子に嫌われてもスケベな顔した男の子にちやほやされているように見える。
美人よりブスのほうが性格がいい、というのも俗説で信憑性が薄い。ぼくの経験上であるが、美人で性格のいい子もいれば、ブスで性格の悪い子もいる。顔の善し悪しで性格が決まるという、医学的根拠もない。医学的根拠で考えれば、顔は先天性遺伝だが性格は後天性遺伝である。なお、この医学的根拠から考えると「心がブスだから、顔もブスになる」というブスに浴びせられる中傷もまったくの眉唾になるが。
たしかに、明治時代の女子大なんかでは「美人は悪」という考えが学内にのさばっていたなんて話も聞くが、これは美人の学生は在学中にすぐに縁談がまとまって金持ち息子と結婚して中退するのに対して、縁談がまとまらないブスは結婚が出来ないので卒業してしまい、更に学問を進めるからである。カトリックなどの聖職者は男も女もたいていはブスだが、これだって美人はセックスをする相手に恵まれて汚れていくのに対して、ブスは処女や童貞を守ることができたからだという話も聞いたことがある。
この二つの話だけでも、美人には結婚するか学問を進めるか、もしくはセックスするか聖職者になるか、の選択の余地があるが、ブスにはその余地がない。それだけ、ブスのほうが恵まれてないのだ。
子供の頃、ぼくらは大人たちから「人間は平等だ、これは憲法でも定められている」と嘘を教えられた。憲法で定められているのは、基本的人権の尊重であり、保障されているのはあくまで最低限の人間としての生活、だけである。最低限を下回らなければ、あとは保障はない。生まれるのは格差で、持って生まれたもので恵まれるか泣きを見るかが決まる場合もある。
そして、恋愛は心の奥底から人間とつきあうことである。だから、建前が通用しない。残酷にその格差が浮き彫りにされてしまう。
これは悲しいことかもしれない。だが、誰もが自分の本音に帰ったとき、ブスはいやだなあとも思ってしまうから、どうしようもないのだ。
「顔もまあ、いいにこしたことはないけど、それよりも性格のいい人とつきあいたい」
と平然とぬかす男も女も世の中にはいるけど、それだって実際に観察してみると、顔が良くてはじめて性格まで評価されるのが実状だ。どんなに性格が良くても、顔がひどけりゃ相手にされない。
この現実。目を背けたいけれど、そろそろ直視しましょうか