T
「てゆうか」てゆう言葉が平成ヒトケタの時代にはあった。
まだ、流行っているのかどうかは知らないけど、とりあえずもう流行は終わったと仮定して話を進めることにしましょう。
都内に住む高校三年生の美樹ちゃんは、流行に敏感な女子高生になりきるために、この「てゆうか」ってゆう言葉を、高校一年の時から使っている。
「ねえ、昨日の合コン、最悪だったと思わない美樹? 大学生ってゆうから行ったのに、実は専門学校生で大学の通信教育をやってるだけだなんて、ホント詐欺まがいじゃん」
「てゆうか、別にそういう学歴とかは、あたしもおつむ弱いからあんま気にしないけど、いかにもあたしたちよりバカそうなのばっかだったのが良くなかったよね。あれならまだ、三浪して親に泣きついて新しい大学を創ってもらった広尾のトモ君のほうがおつむ良さそうだもん」
「てゆうか、トモ君はお金持ってるし」
こういう感じで、美樹ちゃんは常に、会話の合間合間に、九官鳥のひとつ覚えのように「てゆうか」を連発していたのである。もちろん、美樹ちゃんだけではなく、まわりの友達も「てゆうか」をいっていたけど。
しかし、若者の間で流行る言葉なんてのは、しょせん結核菌並みの勢力しか持っていない。一気に伝染するが、イソニアジトやストレプトマイシンが現れるとよほどの抵抗力がない限り、全滅してしまう。
だが、毎年何千人単位の人が結核で亡くなるように、強い菌というものもまれにいるのだ。そして、美樹ちゃんのウェルニッケ野やブローカ野などの領域で猛威を奮ったと推測される「てゆうか」菌は、とてつもなく強い菌だった。
彼女は、「てゆうか」ブームが去ってもう一年以上が過ぎようとしているのに、いまだに「てゆうか」を連発している。話に熱中するといつのまにか「てゆうか」を勢い込んでいってしまうことが口癖になってしまったのだ。しかも悲しいことに、美樹ちゃんを襲った「てゆうか菌」は自覚症状がなかった。自覚症状はないのだが、知らず知らずに「てゆうか」を使っているうちに、美樹ちゃんはいままで友達と思っていた学校のコが、距離を置いて自分とつきあいだしたことに気がついた。そしてその時は、もうすでに手遅れだった。
何をしゃべっても、相手は「へー」とか「ほー」とか「うー」しかいってくれなくなったのだ。
これは女子高生の美樹ちゃんには耐え難い苦痛である。
どんなに一生懸命話しても、相手は相づちしか打ってくれない。これでは、対話が成立しない。つまり、おしゃべりができないのだ。
美樹ちゃんは落ち込んだ。苦しくてしょうがない。学校へ行っても誰もちゃんとおしゃべりしてくれず、強引に割り込むとみんな妙に無口になるのだ。
そのうち、少しずつだが美樹ちゃんはいじめの標的になってしまった。
さて、なぜ美樹ちゃんはいじめの標的になったのだろう? なんとも不可思議な話である。
もちろんここで、美樹ちゃんがいじめの標的になった原因を「性格の悲喜劇というものです。人間の生活の底には、いつも、この問題が流れています」などと逃げるのは簡単だが、これでは問題をすりかえているだけかもしれない。問題は、性格の悲喜劇がどうして起こってしまったのか、ということであると思われるからだ。そこから日常生活の教訓を導き出してこそ、こんな下手糞で説教臭い文章でも、まあ許してあげようとなるわけである。
何かに悩んだら逆転の発想をしてみればいい。すなわち、どうすれば美樹ちゃんはいじめの標的にならなかったか? ということを考えるのだ。うん、ぼくにしてはなかなかの名案だ。
えーと、まず美樹ちゃんの「てゆうか」の口癖が多分いじめの発端なんだよなあ。上の話で、もしも「てゆうか」が原因じゃなかったら、読者が怒っちゃうもんな。つまり、流行遅れをいじめたということか。いや、そんな単純じゃ面白くないなあ。うー、なんだろう。書いている作者が、全く話の裏をつかめてないってのはいくらなんでもやばいよなあ。でも……。
と、逆転の発想が浮かばず三日ぐらい悩んで、やっと人前に出せるぐらいの仮説ができた。なんとなくだが、やっとぼくにも少しずつわかってきたのだ。
その仮説とは、
「美樹ちゃんがラ・ロシュフーコーの愛読者であったならいじめの標的にはならずにすんだ」
というものである。
ちきしょうてめえ、話をそらすんじゃねえよ、とここで読者は思ってはならない。どんなにインチキ臭い学者でもそれなりに、仮説の裏付けを持っているものだ。まあ、けつの穴のちっちゃい人はちゃっちゃっと飛ばしてもらって構わないけど、自分のけつの穴の大きさすら知らない人はできればこのばかげた仮説につきあってください。
ラ・ロシュフーコーはご存知の通り、おフランスの作家さんざんす。アフォリズムが得意な暗いフランス人ですね。彼が『箴言と考察』という本のなかでこんなことをぬかしています。
「話し合う場合、ものわかりがよくて、愉快そうに見える人がじつに稀である事情の一つは、人が十中八九まで、相手の話にきちんとした返答をすることよりはむしろ、自分のいおうと思っていることに考えを持っていくからである」
なんだか、教科書みたいになってきたがしょうがないのだ。説明をするな描写をしろ、の文章理論に反して説明をこれからするのだがなりゆきじょう仕方ないのだ。
冷静に考えてみよう。「てゆうか」はわかりやすい言葉に直すと「というよりは」である。これは、前の言葉を否定する表現である。ここから一気に先走り考察をすると「てゆうか」は相手の言葉を完全に否定する会話における言葉の暴力、という結論になる。
実例をあげてみよう。
「ねえ、お腹減ったよねえ」
「てゆうか、ノド渇いたなあ」
お腹が減ったといってる相手の言葉を完全に無視して、ノドが渇いたと喚いているように聞こえはしないだろうか。
「ねえ、正常位って好き?」
「てゆうか、あたし、スカトロしか感じないから。スカトロはいいよ、だってねえ……」
相手の質問を全く無視して、自分の好きなことを延々と語り出している。相手は、ノーマルなセックスをどう思うか聞いてきているのに、全然関係ないスカトロの話をされるのだ。相手としてはたまったものではない。
これが、「てゆうか菌」の代表的な症状である。美樹ちゃんがいじめの標的になるのもわかるような気がするであろう。
U
人の話を聞かずに自分の考えを語るのは良くない、と延々に語っていたらなんだかストーリーを考えるのが面倒になってきたなあ。まあ、いきあたりばったりで書いてみるか。
康平がクラスメイトの女の子に、どんな男がタイプ? と失礼な質問をしたとき、クラスメイトの女の子は、
「そうだなあ、やっぱり、自分に自信がある人って素敵だよね」
と夢みる眼つきで答えた。
二人とも十七歳、青春まっただなかの日のことである。
青春まっただなかの男ほど単純なものはない。
康平はそれから自分に自信が持てるように、いや、女にもてたい純な一心で自分に自信を持つための努力をした。
だが、努力しても、動機が不純な努力とはあまり実を結ばない。
三年後、二十歳になった康平は、実力はそんなに無いけど、とりあえず自信は持っているという人間になっていた。
十七歳から二十歳といえば、いろいろなことが起こる歳頃である。うまくいくことがひとつあれば、うまくいかないことがみっつあって、毎日が辛く、また、楽しい歳頃だ。
天気のようにころころ変わるいろいろなことを康平は、自分に自信を持つための訓練だとおもってぶつかっていった。そして、一抹の自信を勝ち取ったのだ。
康平の体には決して自信が溢れていなかったけど、彼の言葉には負け犬の呻き声に似た自信が溢れていた。
たとえば、何か失敗して他人に「失敗しただろう」と聞かれたら、ムキになって反論して他人をいいくるめるのである。
誰かが野球の話をしていると野球に関する自慢話ができ、誰かが車の話をしていると車に関する自慢話ができるようにもなった。
康平は自分に完璧な自信を持っていた。自分の立場が危うくなると人のせいにして、自分が間違っていないことを再確認した。
それで、康平に彼女ができたかというと、彼女はおろか、友達ひとりできなかった。
どんなに謙虚な人でも、人間はみんな、自分よりすごい奴はいないと思っているものである。また、自分が思っているほどすごい人というのもいないものである。だけど、現状の問題点はそんなところにはない。
問題点はそもそも、康平くんが自信を持とう、と思った自信が、自分にとっての自信ではなく、他人の眼から見た自信だったことじゃないだろうか。
康平くんにとって、他人の眼は自分の自尊心を脅かす恐ろしい存在だったのである。
自分のことを特別な人間と思いこみたいのと同時に、人からも特別な人間として見てもらいたかったのだ。
こういうタイプの人というのは、自分を持ち上げるのはめちゃくちゃうまいのに、人っこひとりほめられない。さすがに、あまりにも自分とは実力のかけ離れた人ならほめることができるけど(そういうことのできない人もいる)、自分と似たような立場の人の長所を見つけることができないのだ。近所から頑固じじいと呼ばれているのに孫にはとことん甘い老人のように、自分のことは寛大に、他人のことはシビアに評論する。
なぜ、ここまで細かく断定できるかとゆうと、かつてぼくがそういう人間であったからだ。
つい数年前まで、ぼくは自分を過大評価し、他人からもその評価で自分を見てもらいたいと思う、はったりくんであった。
小さいことにもどうでもいいプライドを持ち、そのプライドがわかっていない奴には力尽くででも自分の評価を押し付けていた。
ただ、その頃のことをいま振り返ると、あんまり幸福じゃなかったなあと思う。いつもどこかで見栄を張り、その見栄のために精一杯だった。どう考えても、しんどいよねえ。
だから、最近になって人前で「おれってどうせこんなもんだよ」といえるようになって、ものすごくラクになった。おまけに、へんなプライドがないから他人に腹を立てることも少なくなった。
自分の器を知る人が増えても戦争はなくならないかもしれないけれど、些細なけんかはなくなると思う。
V
由紀は、自分が人の心を読めると思っている。
別に由紀がエスパーで透視能力を持っているという話ではない。
由紀は、その人の行動、言動で、この人はどういう人か、を判断するのだ。
雅美は優しいんだけど気が弱い、裕美子は気軽なおしゃべりが苦手だけど話すことには無駄がなくしっかりしている、広香の軽いおしゃべりは面白いんだけどのりすぎると自分ひとりで笑う自己陶酔的な話し方になる。
友達と会えば、いない人の噂話をし、他の友達と分析している。
「雅美はねえ、優しいんだけど、優しすぎんのよねえ。気が弱いの」
「うん、わかるわかる。あたしもときどき思うもん」
「耕市君は、見た目いい人そうだけど、なんか違うのよね」
「多分あの人、意外に冷たいよ」
友達と会えば、由紀は常にわかったような顔をして、自分が読んだ人の心を力説していた。
そして由紀は、まわりの友達から自分は人の心が読めるということで、一目置かれていると思っていた。
人を慎重に見つめ、心の裏まで読んでいると思っていた。
まさか陰で、由紀のことをみんなが「他人評論家」とバカにしているとは思わなかった。
自分が、クラスいちの嫌われものだとは読めなかった。
「由紀ってさ、いっつも自分が人の気持ちを読めるとかいってるけどさ、全然わかってないよね」
人の心が読める、なんていっている人は、まあたいてい、知ったかぶりか勘違いである。もともと、人間なんてそんなに簡単にわかりあえるものではないのだ。
第一、本当に人が考えていることがわかるのならおそろしくてそんなことはいえないであろう。
この人はこういう人だと見抜いたつもりになってる人は、相手の人間性を決めつけてるわけだから、どうしてもよっぽど気をつけない限り、相手より一段上に上がって話すスタンスになる。これは相手にしてみりゃ非常に腹立たしい。勝手に君はこういう性格だから、と偉そうにいいやがってんのだ。かなりの侮辱である。
しかし、心が読めると自称している人は、周りからそんなふうに思われていることに気づかずどんどん増長する。ちょうど、いまこの原稿を書いているぼくのように。
人の心を読むなんていうのは、しょせん既存のパターンに当てはめてるだけじゃねえか。
そんなに人を分別して、自分を特別な存在にしたいの?
村上龍の『ラッフルズホテル』のなかの一節。
「世界で二番目に嫌いなものは、自分を誤解されることで、一番嫌いなものは自分を理解されることだ」
ぼくに技術が無いせいで借り物の知識ばかりだけれど、許してね。
W
達也の口癖は変わっている。彼はなにかというと、許せない! と顔を真っ赤にしていうのである。
それも、直接自分の身にふりかかることならともかく、他人の一挙手一投足を見て気にいらない行動を目撃すると、許せない! というのだ。
こんな友人を持ってしまうとしゃれにならないことは想像できるだろう。
道ばたでタバコなんぞ吸おうものならどうなることやら。
達也の友人は、みんな達也にそんなくだらないところで、気を使っている。
少しでも彼の道徳倫理に外れたことをやらないように。
達也が顔を真っ赤にして、許せない! と叫んだら、彼には完全なる正義感があるので太刀打ちできない。
だから、コンドーム持参の今度の旅行に達也を誘うのはやめよう、と達也の男友達たちはいっている。
正義感や立派さ、みたいなものを背負った人間ほどつまらないものはないと思う。
他人が少しでも曲がったことをすると、それは人間としてしていいことかなあ、などとタテマエの話をして自分の正義に酔いしれる。
まるで戦時中の治安維持法を忠実に守ったどこかの臣民のように。
戦争中は敵ならば人を殺してもよかった。それどころか、敵を殺すことは賞賛に値する行為だった。しかし、少なくとも平和ないまの日本では、誰ひとりとして人を殺してはいけない。
ぼくは、正義をそんないいかげんなものだと思っている。
だから、達也君のような、人間はこうあるべきだ、とこだわっている人はつまらないのだ。
いろいろな人がいる。それを、自分の狭い価値観でいいとか悪いとかいってはいけないものなのだから。
下品を一緒になって楽しめる悪友のほうが、お上品で良心的な友人より、ずっといい友達だとも思うし。
X
順司は浩志を心の通じあっている友達だと思っている。
浩志は自分が順司を好きだから、多分順司は自分のことを好きなんだろうって思っている。
ふたりのある日の会話。
「義章なあ、細かいことはいいたくないけれど、あいつたまに、みんなで話すときに絶対してはいけないことをするだろ」
「たしかにそうだよなあ。みんなが盛り上がっているところに平気でわりこんできて、自分のことを夢中になってしゃべったりするもんな」
「そう、なんか自分のことにしか興味がない協調性のない人間って感じなんだよ」
「うん、わがままなんだよ。相手を自分の話に引きずり込むってのが、どれだけ相手にとって負担なのか、わかってないんだな。大人としての自覚がないのかもしれない」
「そうそう。おれもたまに、あいつのこと小学生みたいだって思うときあるなあ、考えてみると。たとえば、こんなふたりっきりで本音をぶつけあってるときは別だけど、みんなで話してるときは、みんなが楽しくやれるように気を配るってのが常識じゃない。そういうルールもわかってないんだと思うよ、義章は」
「内面的には、別々の個性の人間が付き合っていくんだからね。人の気持ちを感じとれる感受性のない奴って、やっぱ最低だよ。相手が楽しめるように気を配っているか、相手を尊重しているか、相手に嫌な思いをさせていないか、そのくらいは考えてかないとなあ」
「おれたちだって、あんだけ義章に気を使ってやってんのに」
ふたりの会話はまだまだ続いているが、アホらしいので却下。
こんな、書いても書かなくてもいいが書かないほうがいくらかましな文章を、あやまって読んでしまってる方はひょっとすると、いままでぼくのいっていることを誤解されているかもしれない。
ぼくはここまで、「てゆうか」は強引な言葉の暴力ですよ、自己顕示欲が強すぎると彼女はおろか友達ひとりできませんよ、人の心が読めるといってんのは相手に対する侮辱ですよ、偽善者になるのはつまらないでしょ、といってきた。
だけど誤解されているかもしれないので確認させていただくが、ぼくは、それがよくない、というつもりはないのだ。ましてや、性格を変えろ、なんて野蛮なことはいいたくもない。
ただ、こういうこともありますよ、といっているだけであり、だからどう、というのはないのだ。ちょっと考えてみませんか、わかんないことでも考えなくてもいいようなことでも、考えなくているより考えてみたほうが進歩じゃありませんか、といってるだけである。このへん、誤解のないように気をつけてください。
なぜ、こんなことをいいだしたかというと、順司君や浩志君をみていただけたらわかるだろうけど、世の中の多くの人と断定しちゃまずいな、少なくともぼくのまわりの人のほとんどは上の二人のように他人の気持ちに敏感で心が弱いのだ。もちろん、ぼくにもそういう面があると思う。
人の輪に入って会話するときは、お互いの機嫌を気にしあってしまうし、他人のなかにずけずけと土足であがりこむようなことはしない。「場」の雰囲気を第一に考え、自分を奥にしまう。
たいへんだねえ。
しかし不思議なもので、そのくせ気を使っている理由は人に好かれたいというエゴイズムに満ちたものだったりする。
冷静に考えるとよくわからない話である。けれど、ぼくの周りはみんなそうなのだ。
単純にみんな傷つきたくないだけなんだろうけど……。
Y
「イワくんって、血液型何型だったっけ?」
どこからこんな話になったのかはわからないけれど、四つ歳上の加川さんはぼくに訊ねた。
「ABです」
「やっぱりね、そんな感じするもん。あたし、何型だかわかる?」
自信たっぷりに加川さん。
「さあ」
くだんねえこと訊くんじゃねえよ、とぼくは思う。
「教えてあげようか、Oよ。見てわかんない?」
「わかんなかったです、にぶいもんで」
「そう、残念。あたし、よく言われるのよ。あなたほどO型の典型のような人がいないってね。O型ってね、目標が決まると一直線に邁進したりする情熱家で、目立ちたがりやなの。ね、ぴったりでしょ」
「ええ」
興味無さげにぼくが答えると、それを感知したのか、加川さんはAB型の話を始めた。
「あたし、イワくんのことABだって思っていた理由はね、AB型の人ってのはみんなクールなの。それでいて、勘がするどい。ああ、うらやましいなあ。あたし今度はAB型に生まれたいなあ」
加川さんはAB型の性格を断定的に述べると、自分の輪廻転生の心配までしだした。
それから半年ぐらいした頃、加川さんが追いつめられたような声をしてとんでもない電話をしてきた。
「あたし、自分がわからない!」
「どうしたんです」
「あのね、このあいだ、献血したの、四百ミリ。その結果が今日きたんだけれどね、そしたら、あたしの血液型、OじゃなくてBだって。一体今までのあたし、なんだったの……」
ぼくは、ほっとした。なにか大変なことが起こったのかと動転したが、加川さんの話を聞いているうちに落ち着いた。
「とりあえず、今から会いましょう。そのとき、お話はゆっくり聞かせてもらいます」
それから更に半年後。ぼくではなく、友人の杉原の聞いた話。
「杉原ちゃんって、血液型何型だったっけ?」
「Aですけど」
前にぼくから、加川さんの血液型事件を聞いている杉原は身構えながらいった。
「やっぱりね、そんな感じだもん。あたし、何型だかわかる?」
「Bでしたっけ」
杉原は例の事件を知っているからその発端となった血液型も知っている。
「そう、よくわかったね。あたし昔、O型だって思っていたけれどどう考えてもB型だよね。O型のときから違和感あったんだ」
こうやってころころ変われるのがB型らしいといえばB型らしいなあ、と杉原は思ったが口には出せなかったそうだ。
血液型や星座などで、性格を当てはめる遊びがある。
そう、あれはあくまで面白い遊びだと割り切って遊ぶもんだとぼくは思う。
だからときどき、本気になって信じている人を見ると、こいつ大丈夫かな、と心配になる。
心理学に「性格心理学」という分野がある。ユングの「内向」「外向」や、クレッチマーの「肥満型」「痩せ型」「闘士型」なんかの、あれですね。そうでしたっけ。
で、まあ、それはいい。あくまでも遊びや研究と割り切っていられるならば。
問題なのは、こういう考え方を実生活に持って行っちゃう危険な人たちである。
人間はひとつのことを思いこむとなかなか否定できない生き物である。それはたとえば、人から聞いた話にしても、一番初めに聞いた話を容易に信じてしまい後に同じことについて別の意見を聞いたら反論してしまうことでもわかると思う。
そこで、なにもわかっていない人が、血液型の性格分類を本気で読む、または聞く。すると、自分の性格に当てはめて納得してしまう。
そしていつのまにか、その人は、その人がイメージする自分の血液型通り行動するようになるのだ。
これはなんだか、ナチスのようでぼくは怖い。
日本中にいるA型の人の中には国会議員や自衛隊員もいれば犯罪者もいるだろう。そんな人たちをイメージだけでいっぺんにひとつの性格にまとめてはいけない。ちょっとクサイいいかただけれど、ぼくと同じ歳のAB型の人が百人いるとしたら、その百人は同じAB型で同じ歳だけれど、百通りの人生を過ごしているわけである。それを、AB型の人間と一括りにするのは素人のぼくが考えてもめちゃくちゃだと思う。
だが、言葉の魔術でまとまってしまうことがあるのだ。自分らしく生きることが、人から提出されたパターン通りに生きることと思いこむ。ものすごく、恐ろしいことである。
「私の素顔がわからない」
そういわなくて済むように、自分を知ろうよ。
Z
むかあし、むかしのお話じゃ。
今から二十五億年ぐらい前の先カンブリア紀、地球には二酸化炭素を呼吸する下等な生物と植物がおった。このころの地球の大気は水素一〇〇気圧、二酸化炭素六〇気圧、窒素一気圧であった。わしゃ、昔から生きとるから知っとるよ。
しかし、この下等な植物の中にラン藻とゆう不良がおってなあ、そのラン藻がこともあろうに、他の生物には毒の酸素を吐出し始めたのじゃ。おそろしいことよのお。それによって、地球上の多くの生物は絶滅したのじゃ。大気の成分は、窒素五〇パーセント、酸素二〇パーセントのほとんどの生物が生きられない環境になってしまったから。すべて、ラン藻のせいじゃ。
それから二十億年ほどたち、カンブリア紀、オルドビス紀と年月がすぎると、今度は酸素にも耐えられる生物、植物が海に誕生していったのじゃ。カイメンや有名な三葉虫、ウニやイソギンチャク。そんな生物がのんびり一億五千万年近く過ごしていると、時はシルル紀に入る。海が満杯になったから、嫌われ者のシダ植物が地上に追い出されるのじゃ。デボン紀になると、両生類が海から追い出され、地上に出現する。
そして、石炭紀になるとのお、地上でシダ植物がジャングルを自由奔放に築き、トンボやゴキブリなどの昆虫は森を自由自在に飛べるようになったのじゃ。
そろそろオチをつけないと、また怒られそうだからわざわざいらんオチをつけるが、賢明な聞き手諸君ならわしの言いたいことはわかるだろうのお。わしが何をいいたいか。
つまり、進化はあぶれ者や嫌われ者の手によって常に行われているということじゃ。わかりやすくゆうと、魚のうちの水辺に追い出された嫌われ者が、浮き袋を利用して肺を作ったわけだのう。いまや、熊が鮭を獲ったり、人間が漁業をやっているように、その肺を持った生物が肺を持たない魚類を操っている。
嫌われて進化したものが強者。これが、自然の定理じゃ。
日常生活について我々はもっと自然に学ぶべきだ、とテレビがいってたので、自然から学ぼうと思い前半のストーリーを書いたが、なるほどなあ、と思った。
きたやまおさむのいっていたビートルズのパラドックス(この世から不良少年を排除したらビートルズのような素晴らしい音楽も聴けなくなる)そのままのことが、地球上では繰り返されていたわけである。
近頃、強烈な自己主張を持っている人とはとんとご無沙汰である。また、昔はとんでもなかった奴が、共同体から抹殺されないように普通の人になっているのもよく見かける。
個性の時代、なんて言葉だけはいっちょまえに世の中をかけずりまわっているが、本当に個性的な人とゆうのは全然いない。生意気な子どもぐらいである。その子どもだって、すぐに普通の人になっちまう。
なぜ、こんな風になってしまったのだろうか?
ここに現代が抱える病の病原菌がいると思う(大きく出ますよ、今日は)。
人と違うことをやっちゃいけないのである。
たとえば、なにかに興味を持つ。熱中する。でも、そのことについて知りすぎちゃうと、おたくと呼ばれる差別用語によって差別されるのだ。自分の趣味のことしかわからない間口の狭い人間と決め付けられ、ちゃんとした人付き合いのできない人間と断定されてしまう。
特にぼくと同世代ぐらいの人は、WやXで話したように「やってはいけないこと」とゆうキーワードが大好きで縛られている。
これでは、桁外れな人物は生まれないし、もし居たとしてもうまく生きられない。
自分でカゴを作ってそのカゴのなかで遊んでいる鳥なんだかんね。
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「どうして、和也は普通になれないんだろ。いつも、付き合った女の自慢ばかりしている」
「付き合っている女の自慢をすると、普通じゃないの?」
「いやでも、変じゃん和也って。それに、車で警察に追っかけられたことも自慢してたんだぜ」
「そうかなあ? 別に変じゃないと思うけど……それに普通の人なんていないよ、きっと」
「どうして、美香は人に嫌がられることばっかりするんだろう? ホント、信じらんない」
「君の狭い心では信じられないという話かい」
「いや、でも、あのままじゃ、嫌われるよ、絶対」
「性格や行動で人を嫌いになったりしては自分の心がどんどん小さくなるからやめたほうがいいよ。その美香ってコが人に嫌がられることをするのだって、どうせ持って生まれたものか、まわりがそうさせたものか、のどっちかじゃない。このうちのどっちにしても、それは本人の責任じゃないからね」