小・中学校とぼくは平和的な戦後教育を受けてきた。特に道徳の時間には「困っている人を見たら助けてあげよう」ということと、「マイノリティーへの差別はいけないことだ」というふたつのことを強調して教えられて育った。
その成果として、義務教育を終えたぼくは、困っている人を見たら自分を犠牲にしてでも助け、マイノリティーと呼ばれる人たちの言葉に耳を傾ける人こそが、「本当に良い人」だと信じていた。
高校時代の同級生にAくんという子がいた。彼はマイノリティーだった。もっと、具体的に言えば変態だった。女子の排泄にしか興奮できない障害の持ち主だったのだ。
男子高校生にとって性欲の処理は重大な問題である。
女を喰おうが、代用品をフル活用しようが、睾丸にカルピスの原液状のおたまじゃくしの束は溜まり続ける。人間だからしかたがないとは思うが、男子高校生にとってこれほどわずわらしいものはない。ウンチはものを食えば出る、シッコは水分を取れば出る、とわかりやすいのに、それらの排泄物にくらべこの淫水はどうして出るのかわかりにくい。男をバカにするのもいいかげんにしたまえ! とやり場のない怒りを憶えるほどだ。
だが、それでもノーマルな趣味ならまだまだ救いがある。代用品が充実しているし、性欲を解消するために彼女を作ることもできるからだ。
それに比べると変態であるAくんは悲惨だった。
彼女を作り、性欲を処理できる工程まで持ち込んでも、十代同士のカップルではノーマルな性欲処理方法が主流だ。いきなり「オシッコを見せて」と言ったことはないけれど、言えばせっかく苦労して作った彼女に逃げられるとAくんは思いこんでいた。青春の十代でAくんは、すでに恋愛に希望が持てなくなっていたのだ。
かといって代用品も充実していなかった。
変態ならば、友達から裏ビデオがまわってきても、全然興奮できないということが起こる。だから、自分の趣味の代用品で楽しみたいのなら、その代用品をすべて自費でまかなわなければならない。これはつらい。しかも、そういう趣味に偏ったものはあまり売れないから、単価は高いし中古も出回っていない。本だって一冊何千円とするし、ビデオになると一万円の大台を越えたものでないと出来がひどいと言う。だけどそう簡単にそれだけのお金を持てるほど、高校生の財布は裕福なはずはない。だから、少ない数しか持てなくて、すぐに飽きてしまう。
Aくんはマイノリティーであるがゆえに、大変困っていた。
マイノリティーが大変困っているならば、助けてあげなくては。
義務教育で耳が腐れるまでそう言われ続けていたぼくは、彼のために一肌脱ごうと思った。
ある日ぼくは、Aくんのために朝七時半に登校した。学校は九時に始まるから、その一時間半前である。校庭で野球部とハンドボール部(強かった)が練習してるだけで、校舎に人影はない。知恵のないぼくは、しめしめと思い、自分のクラスにカバンを置くと、三年生の校舎にむかった。Aくんが年上のちっとも小便臭くない女の子のオシッコほど興奮すると言ってたからである。
誰もいない時間の学校は閑散としてて、机が寂しそうに並んでいる。ぼくはそれを見て、またもしめしめと思い、制服の裏に隠し持っていた空の水筒を取り出した。
目指すは女子トイレ!
足音を立てないように摺足で廊下を走って、女子トイレに入る前に周りにだれもいないかを確かめて、ついに目的地に入った。なかには五つの個室があった。まずは、目的の趣旨とは違うが、ぼくが汚物入れに興味があったので早速探ってみた。あいにく、朝なので残念ながら五つとも空だった。
気を取り直して、どの個室がいちばん利用者が多いだろうかとぼくは考えた。五つの個室のうち、手前のやつひとつが洋式であとは和式だ。ぱっと考えれば、世代的に洋式のほうが多い気がするが、以前さりげなく女の子に聞いたら、洋式のほうが楽だけど衛生的に見れば和式がいいので外では和式を使う、と言っていた。清潔な女の子(当時はまだ、女の子は清潔なものだとぼくも信じていた)は和式を使うようだ。そして男の場合、となりの便器では混んでいない限り用を足さないというルールがあるけど、それが女の子にもあると仮定するとおのずから利用者数が見えてくる。つまり、手前から数えたら一番目は洋式なので無視して、次の二番目、そして四番目が多いとなるわけだ。
ない知恵でその結論に達したぼくは、まず二番目の個室に入って、その便器のなかの水を回収した。便器の汚れている部分をトイレットペーパーで拭いて、その紙を几帳面に折りたたんで内ポケットに入れた。Aくんの喜ぶ顔が浮かぶ。勢いづいたぼくは、四番目の個室にも入った。そして、同じように回収していたときに入口のドアが開いた。へたくそな鼻歌を唄っている声は、あたりまえだけど、女子だった。
ぼくの手は止まった。肝心なことを忘れていたのだ。三年生は、朝から課外をやっている。つまりぼくらは九時から学校が始まるけれど、三年生は八時から学校なのだ。体中から汗が出てくる。バレてしまえば、ぼくが変態のレッテルを貼られてしまうではないか。こんなことしなきゃよかったと後悔する。
女子の声には聞き覚えがあった。というより、昨日、ぼくが怒られた相手である。部活のひとつ歳上の先輩N女史だった。
あの小娘め、鼻歌なんか上機嫌に唄いやがって。きっと昨日、おれにけちをつけたことで優越感に浸っているのだ。ふん。そうだ、どうせならあいつが個室に入ったら上から水でもぶっかけようかなあ。あああ、カメラ持ってくりゃよかった。あいつの不様なトイレ使用中の写真を撮って、それを弱みに使えるのに。
ぼくは、怒られると根に持つ気質である。追いつめられてることもあって、いろいろな考えが浮かんだ。
だが、冷静なN女史は、ぼくの知恵を超えた行動に出る。彼女はわかっていたのだ。個室の下の隙間から覗く学生ズボンの裾を見つけていた。
いきなり、ドアを激しくノックされる。神経を尖らせていたぼくにこの音は強烈だった。思わず、キャッと自分でも情けない驚きの声を上げてしまう。
「あなた、男子でしょ」
いつもの冷たくてトゲのあるN女史の声が聞こえる。N女史のしつこさを知ってるから返事をするしかない。
「その声はNさん。おれです」
「あんたなにしてんの?」
敵意のこもったN女史の声。
ぼくは、とっさに思いつく限りのでまかせを口走った。
「いや、あの、昨日のことを先輩にあやまろうと思って朝から三年生の校舎に来たんですけど、まだ誰も教室にはいらしてなくて待っていたら、突然お腹の調子がおかしくなったんです。そこで慌ててトイレに入ったら女子トイレで、すぐに出ようと思ったんですけど、出だしたものがなにせ調子が悪かったから止まんなくて、ずっと座っていたんです。悪いことだとは思っていたんすけど、誰もいないからまあいいやと思って」
「そう、お腹いたいの。でも、ここにずっといるわけにはいかないし、わたしが用を足すのにも邪魔だから出ていってくれない」
「なんとか先輩が入ってきてから出る準備、つまりケツを拭くってことですが、それは充分です。先輩さえよければ、すぐに出ます」
「そんなことは言わなくていいから、早く出なさい」
「ハイ」
ぼくはドアを開けた。N女史はぼくを見たとたん、表情から敵意をなくした。
「ホントに悪そう。大丈夫? こんなに汗かいて……」
冷や汗がいい具合に作用したようだ。ぼくはN女史の心配そうな顔に会釈をして教室へ戻った。
ぼくらのクラスにはまだ誰も来ていない。
ぼくは教室へ戻ると、黒板の下に放置してあるプリントのあまりで便器の汚れを拭いたトイレットペーパーを包装した。Aくんよりも早く来た生徒に、「水筒持ってるならちょっと飲ませて」と言われないために、水筒は掃除用具入れの中に隠した。
それから男子トイレに行って、石鹸で手を何度も何度も洗った。潔癖性のぼくにはかなりの激務だったのだ。手のひらにうようよと大腸菌がうごめいている気がする。いくら洗っても、手にこびりついてるようで気になってしかたない。パンやハンバーガーなど手づかみで食べるものは、一週間は食べないほうがいいだろうとまで思った。
教室へ戻ると、少しずつ生徒が登校しだしていた。「おまえ、早いなあ」などと言われながらぼくはAくんの登校を待った。
しばらくして、Aくんがやってきた。ぼくは早速声をかけた。
「Aくん、いいものを手に入れたよ」
「何?」
ぼくは掃除用具入れを開ける。雑にほうきやモップが立てかけられている道具入れの中から、ぼくは水筒を取り出した。
「この水筒の中身、すごいんだよ。苦労したんだから」
「何が入ってるんだ?」
Aくんは興味深げに訊く。ぼくは、わざとおおげさに間を取ってからAくんの耳に小声で言った。
「女子トイレの水。しかも、三年生校舎のだよ」
「はあ?」
Aくんはあきれた声を出した。もっと、感動してくれるものだと思いこんでいたぼくは戸惑った。
「ただであげるよ。オカズに使いなよ」
「おまえ、バカじゃねえの?」
「どうして? よくない? 女子トイレの水だよ」
期待はずれな反応に肩を落としているぼくにAくんは諭した。
「あのなあ、学校の浄化槽ってのは男子トイレも女子トイレも同じなんだよ。つまり、その水は三年のかわいい先輩がクソを流した水の可能性もあるけど、おまえやおれのクソを流した可能性もあるの。おれはな、少しでも男がクソを流した可能性のある水なんか、オカズには使えねえよ。女子トイレに忍び込めば興奮するけど、共同便所に行ったって興奮しないのと同じ理屈さ。悪いけど」
Aくんの「悪いけど」には、ぼくへの気遣いが感じられた。
しかし、ぼくは落ち込んだ。もしかしたら、あの水筒にはぼくのうんこを流した水が入っているかもしれないと考えただけで鬱だった。
がっくりした気分で、水筒を学校の焼却炉に捨て、ぼくは「本当に良い人」になれなかった自分を悔やんだ。
だけど、これで終わりではなかった。
三日ほどして、政治経済の教科書がやけに臭いことに、政治経済の授業が始まる直前に気がついた。
あきらかにうんこ臭いのだ。
もしや! 勘の鈍いぼくでも、臭いの原因はすぐにわかった。
せっかく採取した水筒の水を受け入れてもらえないショックで、ぼくはすっかり忘れきっていたのだ。
教科書を開くと五八ページと五九ページの間に、分厚いプリントのあまりが包まれていた。プリントの隙間からは、白いトイレットペーパーが見える。
すぐにぼくは、その分厚いプリントのあまりをゴミ箱に捨てた。臭いでばれないように、ゴミ箱の奥まで押し込んだ。
だが、いつまでもぼくの政治経済の教科書は、五八ページと五九ページを中心にうんこ臭いままだった。いくら香水をかけようが、香水の匂いは落ちても、その臭いは落ちなかった。まるで「本当に良い人」を目指した偽善的なぼくを咎めるように。