プロとはなんぞや



 身内にだけに見せる非常に地味な記事をちょっと前に4ページほど書いた。
 内容は、というと「商売にならないJリーグの危機」と題し、なぜJリーグが商売にならないのか、そしてどうすれば今後Jリーグは発展するのか、なんてことをえらそうに考察している。


 んで、そういうものをしこしこ作ってると、叩かれる。まあ、署名して書かれた文章というのは、作者の意図に反して、批判されるために存在していると思うので、それは別にかまわないのだが、ひとりやっかいな人間がいる。


 ぼくは記事をJリーグの理念をベースに、というかその思想に大いに便乗して原稿を書いた(Jリーグの理念について詳しく知りたい方はこちらへいってください)。
 そして、「Jリーグを儲からないからとつぶしてはいけない」と結論づけた。
 つまりぼくは、Jリーグにはそれだけの価値があるから儲からなくてもいい、ということを言いたかったんです。たとえば、純文学だってちっとも儲からないでしょ。マンガや推理小説のほうが断然儲かる。だけど、純文学は価値がある(とされている)から、文壇がちゃんと保護してるじゃないですか。クラシック音楽もそうですよね。儲からないからダメだ、じゃなくて、価値のあるものに対しては、儲からなくてもやっていける仕組みを作らないといけないとぼくは思うんです。


 なのに、そのやっかいな人が言うには「プロなんだから儲からないといけない」。
 その人は、プロのコピーライターさん。で、ああいう中途半端にマスコミに寄生してる人は「プロ」を連発しますよね。「おれはプロだから」みたいに。
 それで、そういう人たちにとっての「プロ」の基準はすべて「金」なんだ。「プロは金を稼いでこそプロ」なんてことを平気で言う。


 だけど、ぼくはその考えはもう古いと思います。
 一九九〇年代に入って、企業の社会的責任ということがしきりに言われるようになりました。
 いわゆるメセナやフィランソロフィーが代表例ですが、本来「利益を追求すること」が目標になっている企業が、儲けを考えずに環境や芸術に投資する時代です。
 そんな時代に「プロ」の基準が金だというのはおかしい。
 自分のことを「プロ」だと言っている人の言葉のニュアンスは気取ってるようにぼくには見える。だけど、もし「プロ」ということを肯定的に発言するときの「プロ」という言葉の基準が「金」であるのなら、極端な話、自分が金で買われた、金さえ積まれたらなんだってするんだと言ってるように聞こえ非常にかっこわるいことだと思います。
 少なくとも日本が貧しくて、明日食べる物も部屋を暖める暖房もないような頃なら、プロの基準が金でもいいでしょう。でも、中学生まで携帯電話を持っている時代に、プロの基準が金というのは、心が貧しすぎやしませんか?


 ぼくはこれからの時代で「プロ」と呼ばれる人の「プロ」の意義は「社会に貢献する人」ということだと思う。このあいだ、仕事でとある高速道路に使う部品をぼくは作った。おそらく、都市高速道路ができれば多くの人が喜ぶだろうから、このぼくの仕事も「プロの仕事」と呼んでいいだろう。お百姓さんがお米を作るのも、お米を必要としている人がいるからで、社会に貢献している。


 もう、プロの条件は金なんかじゃないんですよ。
 社会に貢献してるか、それだけなんです。
 そして、Jリーグは社会に貢献するから必要なんだよ、こんちくしょう。
 なのに、そのやっかいな「プロ」のコピーライターさんは「プロ=金」の古い頭で、「儲からないならプロである必要がない」と言ってみたりして、ぼくの原稿に的はずれな注文をつけ、ぼくをほとほとあきれさせてくれました。おかげで、原稿の完成は大いに遅れ、完成度もかなり低いものになってしまい、そりゃあちょっとあんまりだあとかなしくなって、この場を借りて愚痴らせてもらいました。読んでくれた人、ありがとう。

目次へ
ホームへ