スタバの思い出

 はじめて、スターバックスコーヒーに入ったのは、二年ほど前だ。
 場所は大阪は梅田、観覧車のあるHEP FIVEビルの七階。大阪ではなんば、千日前といったミナミを行動範囲にしているため、その日のぼくは久々にキタを歩いてぐったりしていた。そこで、ちょっとコーヒーでも飲んで休もうではないか、と思ったのだ。すごく寒い日で、冷たい雨が阪急電車やJRを濡らしていた。


「英国屋」や「珈琲の青山」のような高級喫茶は、学生のぼくがぶらりと入るようなところではない。できれば、ドトールコーヒーのようなセルフの喫茶店が好ましい。しかし、ここは関西でいちばん人の多い天下の梅田。いくつかのドトールコーヒーの前を素通りしたが、どこもかしこも満席だった。


 途方に暮れて歩いていたぼくが、「あ、セルフの喫茶店だ」と見つけたのがスターバックスコーヒーだった。見るとお客さんは少なく、ゆっくり座れそうだ。
 ぼくは誰も並んでいないカウンターに、ずがずがと歩いた。カウンターにいるおねえちゃんはぼくのことを、客がやっと来た、とでも言いたげな表情で見ている。
 あ!
 そこでぼくは気づいた。なんと、カウンターに向かう途中に目にした立て看板には「当店は全席禁煙です」と書いてある。ぼくは喫茶店は、喫という字が入っているのだから、タバコを吸う場所だと思っている。なのに吸えないとは……。だから、このお店はお客さんが少ないんだ。うーん、人生、甘い話には罠はあるんだなあ。


 しかし、カウンターのおねえちゃんはぼくのことを見ている。なんとなく、踵を返して帰るのはかっこわるい。そこでぼくは、喫煙席が満席の新幹線の禁煙席の指定席を買うようなつもりで、カウンターに立った。
 うぉ!
 カウンターに敷いてある下敷きのようなメニューは、更にぼくを驚かせた。
 見ると「ラテ」だの「キャラメルマキアート」だの「モカフラペチーノ」だの、いかにも欧州洋行帰りの学者が喜びそうな横文字が並んでいる。「ダブルスクイーズ」なんて、どう見てもカクテルの名前ではないか。


 昔、ぼくはこういう横文字気取りのコーヒーで大失態をやらかしたことがあった。
 シティーボーイズの「鍵のないトイレ」という演劇に、「カフェロワイヤル」というコーヒーが出てくる。「カフェロワイヤル」、その貴族っぽい響きに、若き日のぼくは惹かれた。そして、たまたま入った喫茶店でその飲み物を見つけた。「カフェロワイヤル」、ウェイトレスにそう注文して、ぼくはカフェロワイヤルとはどのようなコーヒーだろうか想像しながら待ち、そして他のコーヒーよりも明らかに高級なカップに入って運ばれてきたカフェロワイヤルを、ぼくはタバコを吸いながら気取って飲んだ。までは、よかったのだが……。ぼくはお酒に大変弱い。そして、カフェロワイヤルとは、ブランデーの入ったコーヒーだったのだ。カップの半分ほど飲んだところでぼくは気分が悪くなり、紅い顔をして代金を払い、家に帰って吐いた。
 そんな苦い思い出があるので、どんな代物かわかったものではないコーヒーは出来るだけ飲まないようにしている。ぼくはカタカナだらけの気取ったメニューを隅々まで眺め、どこかに見慣れたコーヒーはないか、探した。
アメリカーノ
 思案の末、ぼくはそう注文した。響きはイタリア語っぽいが、おそらくこのお店ではこれがアメリカンみたいなものだろう、と判断したのだ。
 サイズが、マクドナルドをはじめとするS・M・Lではなく、Short、Tallと気取っていたのがしゃくに障ったが、どうせタバコを吸えないんなら長居はしないだろうと言うことでShortを選んだ。


 出てきたコーヒーは、紙コップに黒い液体がどばーっと入っている、見慣れたコーヒーだった。うん、選択はたぶん間違ってないな。ぼくは安心して、やけに柔らかい椅子に座った。旭屋書店で買ったフレドリック・ブラウンのミステリ短編集を広げる。タバコが吸えないのは悔しいが、まあ、大都会梅田なんだから、それはそれで我慢しよう、となんとかくつろぎ、アメリカーノを一口、飲んだ。
 うげっ!
 それは、ぼくのイメージしているアメリカンコーヒーとはあまりにもかけ離れたものだったのだ。
 まず、無意味に苦かった。そのうえ、やけに水っぽくて、味がぼけていた。コーヒーと言うよりも、木炭を水に溶かしたような味だった。
 まずい!
 そう思った。そして、飲食店でまずいものを食べたり飲んだりしたときというのは、なぜか敗北感が胸を支配する
 ううぅ、おれがバカだった。空いている店には空いているなりの理由があるはずなんだ。
 なのに、座れるからと単純に選んで、250円も出して木炭の汁を飲むなんて……情けない。
 ぼくは猫舌を押さえて、さっさとこのまずいアメリカーノを飲み、また都会のつらさを味わってしまったとニヒルに気取り、はじめてのスターバックスを後にした。こんなまずいコーヒーを出す上に、タバコを吸えない喫茶店なんてすぐに潰れるだろう、実際お客さんも少ないしと思いながら。


 だから、ぼくはいまだにスターバックスコーヒーは苦手だ。
 流行りだしてから、何度かコーヒー牛乳のような甘ったるいコーヒーや、コーヒーフロートみたいなコーヒーを飲んではみたが、はじめのアメリカーノの印象が強烈なので、まあまずくはないけど、どうしてもそれがおいしい飲み物だとは思えない。
 人間、悪い思い出を持っているものには、素直になれないのである。

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