野暮用で、証明写真が必要になった。
この証明写真が必要になる、という状況は気が重いものだ。普通、写真というものは楽しみのために撮る。旅行に行って、「せっかくだから、思い出になるから写真撮ろうね。はい、みんな並んで。そうそう、ほらほら男の子も女の子もくっついて! はい、じゃあいくよ、いちたすいちは」などと言われて「にっ」と笑って撮るものだ。「一緒にプリクラだけでもいいから撮ろうよ。ね、ね。大丈夫大丈夫、別にぼくと君のふたりっきりでプリクラを撮ったからって、友達に君のことをぼくの彼女だ、と言ったりしないよ。本当だから、それは信じていいから、ね、一緒に、ふたりでプリクラ撮ろうよ」と頼み込んででも撮りたいと思うのは、写真に写ることが楽しいからである。
だけど、証明写真は違う。
自分が自分であることを証明するために、わざわざ撮らなければならない写真だ。中には「わたくしって証明写真を撮るたびに自分の美しさにクラクラしてしまいますの。だから、証明写真撮るの好きですわ」という人もいるだろうが、多くの人にとっては、そんな写真を撮るのは気が重いことなのである。
更に証明写真がいやなのは、自分の顔を直視させられる事態に追い込まれることである。
ぼくらは普段、自分の顔への評価は、なんだかんだ言っても甘めに採点している。
鏡の前では、自分の顔がよく見える角度で座っている。ぱっと鏡を見て変な顔が写っているなと思えば、瞬時に角度を変えて、いい顔に見えるようにごまかしてしまう。そして、鏡の前で鼻歌でも歌いながら「こうやって見ると、そこそこの顔をしてるなあ」と一人で悦にはいっているのである。
写真にしても同様だ。自分の写っているスナップ写真が十枚あったら、写真写りのいい何枚かを自分の顔だとぼくらは日常思いこんでいる。そして、リアルに写っている写真の多くには「なんでこんな変な顔に写っちゃったんだろう」という審判を下し、引き出しの奥なんかに閉じこめて、その事実を抹殺しているのである。
だが、証明写真にはそんなごまかしがきかない。最近では女子学生の就職用に証明写真を加工する商売もあるにはあるのだが、それはあくまで特殊で、ぼくらは何のごまかしもチャンスもなく、ありのままの自分を撮影され、本当の自分の顔を直視しなければならないのである。
もっとも、ぼくらはそれでも自分の顔は直視できないようで、「免許証の写真って変に写るよねえ」とか「証明写真に撮られると変な顔になる」などと言って無駄な抵抗を続けている。
しかし、その変な顔で写った証明写真が、自分が自分であることの証明になるのだから、そのような抵抗は嫌いな上司の自宅にいたずら電話をするぐらい意味のないものである。
写真屋に着くと、他に客はいなかった。
店番のおねえちゃんが、お店に入るぼくを目で追っている。ショーケースには、缶ジュースぐらいの大きさのレンズが並べてある。
「いらっしゃいませ」
おねえちゃんが言う。ぼくは緊張した声で言った。
「あの証明写真をお願いしたいんですけど」
「証明写真ですね。サイズのほうはいかがなさいましょうか」
えっと、サイズはいくつだったけなと考える。おねえちゃんはいつも写真のサイズのことを考えているからなんともないだろうが、ぼくにしてみればこれまでの一生のうち、写真のサイズを考えることはこの証明写真に写りに行くときだけである。そんなにスラスラ出てくるはずはない。
「えっと……」
と気弱な声を出して考える。おねえちゃんは、サイズがわからないと証明写真は撮れませんよと冷たい表情で見ている。その視線が頬に痛い。
ぼくはふと思い出した。たしか、パスポートと同じサイズだったはずだ。
「あの、パスポートと同じサイズなんですけど」
おねえちゃんは、レジの横から田中麗奈がたくさん写っている下敷きを持ってきた。
「パスポートのサイズですと、この大きさですけどよろしいですか」
おねえちゃんはパスポートの写真サイズに写った田中麗奈を指した。たぶん、このくらいだ。
「ええ」
「それでは撮影しますので、あちらの椅子におかけください」
青い背景が一面に広がる椅子にぼくは座った。慣れていないせいか、心細くてしかたがない。きっと、電気椅子に座る死刑囚もこんな気持ちなんだろうなと想像したら、日本は絞首刑だったことを思い出した。そんなことはどうでもいい。おねえちゃんがやってきた。小さい日傘に電気をつけて、平賀源内が持っているようなレンズが四つついている奇天烈なカメラを用意している。
「このレンズを見てください」
「はい」
レンズを見る。レンズさえ見れば、証明写真を撮ってくれるんだろう。早くしてくれ。
願うような気持ちでそう思っていると、おねえちゃんは更に追い打ちをかけた。
「もうちょっと、アゴをひかれたほうがよろしいですよ」
うっわ、である。そんなにぼくは写真に写る資格もないほど、アゴを突き出していたのだろうか? それとも生まれつきアゴが出ているのだろうか? とりあえず、自分を証明する写真にぼくのいまのアゴの角度は変らしい。困ったことだ。ぼくは従順な幼稚園児のように、おねえちゃんの言いなりになってアゴをひいた。
「では、いきまーす」
お姉ちゃんが言った瞬間、目の前に閃光が走った。シャッターの切れる音がする。
「はい、終わりました」
やれやれやっと終わったか、と思ったのもつかのま、不安がよぎる。いま、目をつぶらなかっただろうか? ちゃんと、アゴをひいていたのだろうか?
「すぐにできあがりますので、少々お待ち下さい」
どこで待ってもいいのかわからないので、ただぼーぜんと立ち尽くして、買う予定もないニコンの一眼レフカメラなんぞを眺めていた。おねえちゃんはドライヤーを使って、写真を乾かしている。店の中は二人しかいないのに、ぼくもおねーちゃんもいたって無言だ。居心地の悪い沈黙の空気が流れている。
ドライヤーの音が止んだので、おねえちゃんのほうを見ると、おねえちゃんは巨大なカッターでぼくの写真を切っていた。定規で長さを測って、平気な顔してぼくの胸の当たりをぐさりと切る。ひええ。
「できあがりました」
おねえちゃんが、興味もないのにソニーのデジタルビデオカメラを興味深そうに見ているぼくを呼ぶ。紙袋に入れられた写真を受け取り、金を払ってそそくさと店を出た。自分の顔をおねえちゃんにまじまじと見られた気がして、どうにも気恥ずかしい。
いったい、自分がどんな顔で写ったのか、すぐにでも見たかったが、人前でそんなことをするとよっぼど自分の顔に関心のあるナルシシストに見られそうだったのでできなかった。
家に帰って写真を見た。愕然とした。
「おれってこんな顔をしてたのか……」
カセットテープに自分の声を録音して聴いてみると、こんな声で自分は話していたんだと信じられなくなり、もう二度と人前で話をしたくないと思うものである。
それと同じように証明写真を見れば、自分はこんな顔だったとショックを受け、できる限り人から顔を見られないようにしようと思ってしまう。
だから、証明写真は気が重いのである。